備忘録

》 旧ブログ記事(2010年以前)

「社労士試験」
なにやら先週の日曜日(24日)は社会保険労務士の試験だったようですね。いまごろ受験された皆様は、今年の合格基準はどうなるのかとか、救済はあるのかとか気になって仕方がないところだと思います。
合格発表日まで、本当に合否わからないのが社労士試験のなんともいえないところ。


うちの旦那はミラクル合格でしたからねぇ~。
絶対、落ちていると思っていたのに合格してましたからね。
試験が終わった後に、ミネちゃんこと峰岸先生のおごりで、フグ料理をご馳走になりながら、試験の残念会(?)までしてましたからね(笑)
関連日記
http://plaza.rakuten.co.jp/gyaosu777/diary/200610060000/
http://plaza.rakuten.co.jp/gyaosu777/diary/200611090000/
http://plaza.rakuten.co.jp/gyaosu777/diary/200611100000/
http://keiei-roumu.sblo.jp/article/1691937.html
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「裁判所見学」
先々週の19日は、某所での仕事の後、飲み会の前に中途半端に時間が空いてしまったので、またもや裁判所見学を致しておりました。
裁判を行う部屋のドアに中を覗けるような小窓がありまして、そこから中の状況がどうなっているのか見たりしてました。
よくテレビとかで見るような裁判所の風景が垣間見れて、ちょいと、しみじみ。あまり自分が当事者としては、この部屋に入りたくないなぁ~
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「となりの宇宙人」
あまり身内ネタを書くと、後で紛争の原因になりかねないので控えているのですが、日々思うことも身近から発生しているのでねぇ・・・
旦那から後でクレームくるかもしれん話を1つ・・・
それは8月某日のことでありました。
ちょっとした家庭内紛争が勃発しました。
(詳細は省略)
私が不快に感じるような事件が発生したのですが、それに対して旦那から心無い対応をされたのでありました。
・・・・・・・・・。
物事を不快に思うツボは人それぞれですからね。
しかし、少なくとも私は不快に感じたわけだから、たった一言のフォローの発言あれば、それで私の気が済んで終わっていたんですけどね。
それを火に油を注ぐような対応というか、泥水に泥水を重ねるような発言くれまして、必要以上に紛争状態になったのでありました。
火種をつくったのは第三者だったのですが、自業自得とはいえ、必要以上にとばっちりで悪者になった第三者も気の毒です。申し訳ない。第三者にしてみれば、びっくりでしょう(苦笑)。
紛争を蒸し返したくて、この話を書いているわけではなく、客観的に分析しますと興味深いと思いまして。
私が旦那の思考回路が理解できん!・・・と思っているように、旦那も私の思考回路が理解できないのでしょうねぇ。
前々から、旦那の思考回路が理解できんのは、旦那は実は宇宙人だからや・・・と思っておりました。
先日、ついに旦那が白状しました。
旦那に、「どこの星から来たねん?」と聞いたところ、「コテツ星から」と吐きました。
そうか、旦那はコテツ星人だったのか。
それなら諦めがつきます。
地球人の私とコテツ星人の旦那とでは、育った文化、世界が違いすぎるでしょうから分かり合えない部分があっても仕方ないのかもしれません。
異星人とは、いつかは分かり合える、理解し合えると思うだけ不毛でありましょう。
それよりも異星人の価値観を否定しないよう気をつけながら理解しあうのは諦めて共存する道を模索したほうが、不毛な悩みにとわられない気楽な解決方法のような気がします。
この頃、ようやく気づいたのですが、私以外は世の中の人みな、実は宇宙人のようです。
どうも理解できない部分を持った人が多すぎます。
100%、すべてにおいて自分と同じ考えだ、共感できる・・・という人と、出会ったことがないような気がします。
そうか、皆さん、実は宇宙人でしょ?
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冗談はさておき、
認めてもらいたい、理解してもらいたい、わかりあえるはずだ・・・という期待があり、自分の考えが正しいと思っているから、自分の思い通りにならなかったときにガッガリして精神的に落ち込むのだと思う。
はじめから期待しないでいたならば傷付くことも少ないんじゃないかな。
わかり合えなくて当たり前。
>繰り返しになりますが、外部から入ってくる情報に‘感情‘という出力情報を引き出すのは、私たちの脳の内部の働きによるのです。そして、私たちの脳は、それぞれに生まれ育った学習体験の中で個別に学習された答えによって作り上げられています。
>問題は、それが自分にとって価値があるかどうか。それによって、脳がそのテーマに対して積極的に答えを見つけようとするかしないかが決まってくる
>私たちは、それぞれが生まれ育った学習体験によって脳の内部世界を作り上げています。自分の狭い経験のなかで作られた内部世界からしか、答えを引き出すことができないようになっているのです。
( > のついた文章は、「EQこころのポジティブ革命/著・金盛浦子」より引用)
内部世界・・・目で見える世界とは別に、1人1人、それぞれが脳ミソの中に世界を持っているのですよね。1つとして、まったく同じ世界は存在しないでしょう。
そう考えると、あながち、自分以外はみな異星人という考え方もありかしら?(笑)
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「お葬式」
「お葬式をどうするか/著・ひろさちや」を読んだ。
本の感想・・・
んー、共感するところもあれば、なんか考え方が偏っているなぁ、私とは違うな、というところも多々あり。
鵜呑みにしてよいものか悩むところもありますが、それもまた1つの見解として捉えれば雑学的には面白かった。
・ケガレとは?(要点のみ引用)
古代神道的には、「ハレ」と「ケ」という考え方があるようです。
「ケ」は「気」で、元気とか陽気とか陰気のかの「気」。
日常生活をしているうちに、この気がだんだん滅入ってきたり弱まってきたり、気が枯れてくる。これが「気枯れ」、すなわち「ケガレ」。
そうすると、リフレッシュして回復しないとなんですが、そこで行われるのがお祭り。非日常的なお祭りを行うことにより、日常の中で枯れた気を回復しようというわけ。これが「ハレ」。だからお祭りのときにきる着物を「晴れ着」と呼び、「晴れの門出」などという言葉もできた。
秋田、あちこち「気枯れ」気味ですよね・・・
停滞している気の流れを変え、モチベーションを上向きにするためには、きっかけ・・・イベントや儀式というのは重要なのかもしれないですね。
リバイバル、復活決起集会やりましょう。
尚、「ケ」が充満してエネルギーが爆発状態になるとき、それが「ハレ」なんだという解釈もあるとのこと。いずれにしても「ケ」とは人間の中にあるエネルギーのようなもので、それが枯れてくるのが「ケガレ」。
そこから転化して、「ケガレ」は不浄をも表すようになったとのこと。
・葬式仏教
日本の仏教において、いまのような葬式のスタイルができたのは江戸時代からというのは知っていましたが、なんでそうなったかの詳細は知りませんでした。この本をよんで、そうなった経緯が、なるほど~・・・でした。
(※元々、仏教ではいまのような葬式はやっていなかった)
なんでそうなったかの原因は、江戸幕府の宗教政策、キリシタンの取り締まりに由来するとのこと。
キリシタンを弾圧していたわけですが、自分がキリシタンではないことを証明させるために、「檀家制度」を設けて日本人全員をお寺に登録させ、お寺に役所の戸籍係と同じような仕事を担わせたのだそうです。
その登録簿は「宗門人別帳」といい、それによって当寺の檀家であるという証明がなされました。その証明がない限り、キリシタンと疑われる。。。
江戸幕府はキリシタンをよく知っていたので、キリスト教式のお葬式をやる人をチェックすればキリシタンかわかるので、、幕府は仏教の僧侶に葬式をやるよう命じ、葬式のスタイルができていったのでありました。
そこで僧侶によって考え出されたのが、僧侶同士でやっている、仲間内でやっているお葬式と同じ形式でやるべ、それだと死んだ人はお坊さんでないと困るべ・・・ということで、
まずは人が死んだら、死者を出家させるために、戒名をつけるのでありました。
(浄土真宗では、戒は不必要という立場から戒名でなくて法名という。日蓮宗では法号。)
これも考えてみればおかしなことですね。生きているときは仏教に無関心なのに、死んでから慌てて仏教に入る儀式をやるわけですから。生きているときは無宗教。死んでからは仏教徒。
まぁ、それでもって死んでから戒名つけてもらい、お坊さんに弟子入りし、お葬式にて法を説いて教育してもらい、それから引導を渡してもらいます。お葬式のときのお経は、周りの人間に聞かせるためでなく、弟子にした死者に、さぁ、急いで仏教の勉強してくださいな、と、慌てて法を授けている姿とのこと。
・・・・その他、仏壇と儒教の関係とか、位牌やお墓のこととか、いろいろ書いています。
日常の様々なことを疑っていたら きりがないですが、仏教元来の宗教儀式だと思っていたら実は時の政権が政策的に広めた日本独自の文化、風習でしたとか、疑問を持つことでまた別の角度から物事を見れるようになり面白いですね。
日頃、宗教に関して無関心、無知なのに、自分が死んだら仏教式の葬式で・・・と思っている人でしたら、興味深く読めるかも。
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「手段は違えど目的は同じ」
(「お葬式をどうするか/著・ひろさちや」より引用)
~わたしは日本仏教には、-禅と浄土-という2つの系統があると思っています。まず禅の教えとは、端的にいうならば、死後の世界だとか、霊魂はあるとかないといったことを一切考えないでいられるだけの精神力を養うこと。それが禅宗のいう坐禅の目的だと思います。それに対して浄土の教えとはなにかというと、そういう強い精神力を養う暇や力のない人間は、阿弥陀仏を頼って死んだらお浄土に行くんだと信じなさいということです。信じることができれば考えずにいられます。それが浄土教の目的だと、そう思えばいいわけです~(引用終わり)
お釈迦さまも仏教徒は死後の世界があるかないか、霊魂があるかないか、そういった問題について「考えるな」という答え。
でも在家の信者に対しては、生前によいことをすれば天国へ、悪いことしたら地獄に落ちますと説いておる。
考えないでいられるだけの精神力を身につけるというのは簡単なことじゃないので、考えずにいられるだけの強い意志力を養いなさいと出家したお弟子さんたちに教えたものの、在家信者が強い精神力をつけるのは大変だから、世間の常識をもとに相手に合わせて説いたわけですね。(当時の世間の常識は「輪廻転生」)・・・というようなことも書かれています。
自分はどちらかといえば禅の思想に近いような気がします。
考えたところで不毛である。「道」を拠りどころに、「道」に任せとく。
(自分の過去の別の日記より引用。 http://plaza.rakuten.co.jp/gyaosu777/diary/200511060000/ )

老子の哲学(講談社+α文庫 老荘の思想 より引用)
—-
万物の根元、つまり宇宙の実体を構成し、それを動かすもの、この本体を、老子は「道」と名づけた。
万物は流転する。それが宇宙の運動法則であり、「道」の運動形式。
「道」は一定不変のものとしてはとらえられない。本来、無限定なものであるから「無」としかいえないが、時間と空間に制約された現象として万物があるから「有」と見ることもできる。両者はじつは同じ本体から出ているのだ。「無」とはつねにものを生み出そうとするもの、「有」とはつねにものを滅亡へ向かわせようとするもの。
「無」と「有」、この両者の対立と転化を含んで、止むことなく運行する根元の作用、それは奥深くてはかり知れないから「玄」としか形容することができない。
「天は玄にして地は黄なり」
その根源的な玄なるものから、あらゆる変化、森羅万象が現れる。
「道の道とすべきは、常の道にあらず」
これこそ真の道だといえる道は、絶対不変の固定した道ではない。万物は瞬時にも止まることなく変化しつづける。「変化」こそ宇宙の本質であるから、真の認識は、事物をつねに変化においてとらえなければならない。
*****
言語では道理のすべてを表現することができない。
「道」を体得している人も、それを説明しようとすると、うまく言えない。目の見える人が見えない人に太陽を説明できないのと同じである。(ソウトバ語る)
*****
文字は指にたとえられる。指は真理を指すが、たいてい、人は指の先しか見ず、その指し示す彼方の真理を見ようとしない。(禅宗 六祖壇教より)
——
物事、森を見て木を見る・・・みたいな発想が大事だと思うのですよね。
森を見るにはどうしたら・・・
「古典を学べ」が、1つの方法じゃないかしら。
源流、源流まで遡り、歴史を学ぶ。
「木」しか見えていなかったものが、体系的に「森」まで見えてくる。
成功哲学にしても宗教学にしても、いまとなっては、いろいろな解釈や解説が入り込み、多数の宗派や 書店には本が無数に並んでおりますが、源流まで遡ってみると、けっこう本質的なことは古典から変わらずにいることに気付く。
紀元前の話・・・約3000年前の時代にまで思考を遡らせる。
そこには いくつかの文明国家が既に地球上に。
そして、いく人もの すぐれた学者、思想家が・・・。
東洋においては、インドにて釈迦牟尼。
中国では、老子・・・・など。
先代に生まれた思想家は、後世の思想家にも影響を与え続けている。
禅にしろ、その他の仏教にしろ、東洋的思想に、表現こそ違うけれど、けっこう似たような共通の思考が見られるように思います。
影響を受け継いでいるので当然といえば当然でしょうが。
例えば後世の思想家、「道元」さん。(1200~1253)
道元は13歳で比叡山にのぼり修行の日々を送っていたが、権力者と結び利欲に走る当時の比叡山には失望の思いを抱いていた。又、仏教の根本にかかわる疑問も湧いてきた。
あらゆるものには ことごとく仏性が備わっているという。ならば、なぜわざわざ修行する必要があるのか?
比叡山では答えが得られず、山を下り禅を学ぶ。
その後、中国に渡り修行をし、疑問に答えを見つけて帰国。曹洞宗を布教。
(参考文献:「東洋哲学」は図で考えると もっと面白い)
後世の人により、他の思想を取り入れたり、改良、修正されながら、どんどん体系が枝分かれしていく。
答えは1つとは限らない。
変化し、様々と発生していくのも、自然かもしれません。
歴史や人間を考え始めると、面白いですねぇ。
歴史好きな人に、けっこう共感します(笑)
3000年前より昔に遡って 人間の思想のルーツをたどってみるのも
面白そうだなぁ・・・・。
(変わり者ですみません(汗))
3000年という時間だって、宇宙レベルの大きな 漂う流れからしてみたら、ほんの一瞬。
うたかたの幻のような中で、権力を誇示したり争ったり。
アホくさ~。
地位や名誉、なんの価値があろうことか。
・・・って、たまに老子・荘子の思想の中に漂ってみる。
うん・・・けっこう自分、空想壁あり?(笑)
思考の旅へトリップしてしまうのは楽しいのですが、
これでお金は稼げませんからね。
地に足をつけて、現実を見ないと(笑)
長くなってきたので、このへんで。

禅の思想を好む人は、なんとなく浄土教を、邪道に感じ否定的に見ている人がけっこう存在しているような気がします。気のせい?
逆に浄土の思想を好みそうな人からすると、私なんかは信仰心のない、目に見えないものを信じない、邪道なやつめ、と思われるかもしれません。
盲目的に何かを信じれば救われる・・・という教えには、深い思慮と知恵を感じます。
薪を使って釜でご飯を炊いていたのに、炊飯ジャーでスイッチ1つでご飯を炊けるようになってしまった・・・っていうぐらいの貢献でありましょう。
はたまた、いっぱい手計算していたのが電卓であっというまに計算終わってしまうぐらいの効率化か?
物事を深~く、深く考えるのが好きっていう人もいれば、考えるのが苦手という人もいますからね。
自分の頭に汗かいて苦労して答えにいきつこうとしようが、要領よく自分が信用できると思った存在を頭から疑わずに信じることで迷いを断ち切り答えにいきつこうが、どっちでもえぇんちゃう?・・・って個人的には思ってます。
とらわれない。思い煩わない。
頭の中で考えた瞬間に、分別の心が生じ、とらわれ、思い煩う。
そして多くの苦しみの出発点がここにあるのよね・・・
脳ミソ的に、
ある事柄に対し「できる!」と思えば、なぜできると確信できるのか、脳が答えをいつまでも探し続けようとするし、逆に「できない!」と思えば、いつまでも、できないと思う理由さがしをしてしまうという、脳の潜在意識の特性は、よく知られていることだと思います。
心がどっちの方向向いているか・・・
どの方向向いているかで、分泌される脳内物質も変わってくるようで、頭がネガティブな考えに占領されて落ち込みの思考回路になっているときはノルアドレナリンが大量にあふれ出て、ポジティブな思考回路のときはβ-エンドルフィンがどんどん分泌されていたりするようです。
対人関係問題が発生し、悲観的、不満、怒りで頭の中がいっぱいになると、まずまぁ、頭の中では、自分の中にではなく他者に、不満、怒り等の原因を次から次に探し出し、相手に対する批判、恨み節を延々と言っている場合が、多いんじゃないでしょうか。そして必死に自分を正当化する。
冷静になって客観的に考えると、批判、恨み節を延々といったところで物事がよい方向に転じるのだろうか?
ネガティブになった原因に対して、次から次にネガティブである理由付けをするわけですから、更にネガティブな深みにはまっていきますよね。
そして落ち込みの思考回路の深みにはまり、ネガティブな思考回路のクセがつき、最悪な場合は鬱病になったり自滅していくのでありました。
不満、怒り等の原因は他人だったかもしれないけど、精神的に追い込まれるぐらいになるのは、自分の内面世界の問題なんですよね。
ネガティブな理由付けで頭がいっぱいである限り、状況を前向きに改善するのは難しいと思う。
自分を正当化し他人を悪く思うような心理というのは、ある程度なら精神バランスを保つための自己防衛機能で普通のことだと思う。しかしながら他人に対する愚痴、不満が、ストレス発散の域を超えた場合は、ほんま最近、企業内においてもメンタル不調の人が増えているので悩ましい問題です。
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「犬」
最近、ブログの更新が減ったのは、コテツ(犬)のせいかもしれません。
朝は明るくなるとともに、うるさく騒ぎはじめます。
おかげで、私の起きる時間が早くなりました・・・
うちにきた当初、1ヶ月前までは耳も垂れていて可愛らしかったですが・・・
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いまも一見、可愛いものの・・・
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隙があればイタズラを狙っています。
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噛み付き~
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そしてお疲れの顔。
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最近、コテツを外に出す時間、増やしていっているのですが、コテツの餌を横取りに、野良猫「ニャー」もやってきて、朝と晩、にゃーにゃー騒ぐようになりました(汗)
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マジ、コテツとニャー、うるさいです。
近所から苦情がこないか不安です(大汗)

コメント

  1. こんばんは
     久々に長文の更新でしたね。
    9月なのにまだ暑い日が続いてますね。
     宗教って様々ですよね。うちは一応仏教です。
    引っ越して早々、ご近所さんから苦情きちゃうと
    気まずいですものね。
    のらねこがこなくなりますように。
    勉強会の内容がまだまだ固まらず。
    方向は決まってるのですが、知識不足なので、
    でたとこ勝負気味です。ふー

  2. おつかれさまです。
    犬は愛情と同時に、しつけが大事です。
    上下関係を教えておかないと・・・・暴走・・・
    うーん。私はどこの星から来たのでしょう。

  3. 税理士高橋さんへ
    8月に一時的に寒くて、トレーナーまで出してきて着ていたのに、残暑が戻ってきましたね。
    昼間は暑いですねー
    うちも仏教です★
    幸い近所、犬を飼っている家が多いので、うるさいのを大目にみてもらえているようです。
    しかしいつまでも吠えるのはねぇ・・・(汗)
    昼間ならよいのですが、早朝、深夜はねぇ・・・
    ニャーも、朝は6時ぐらいから、ずっと長時間、家の窓のところで鳴くので困りものです。ふぅ・・・
    勉強会、講師は準備が大変ですよね。
    楽しみにしておりまする♪

  4. マックスさんへ
    なかなか犬の世話に手を焼いております(汗)。
    鳴き叫ぶし、ドックフード食べないし、食べたくないのは食べないし、トイレ覚えないし・・・
    ふぅ・・・
    上下関係は大丈夫なようです。
    私の怒りの目からビームには敏感に察知するようです。フフフ・・・
    (そして旦那の陰に隠れる・・・)
    マックスさんは、マックス星からですかね?(笑)

  5. >禅の思想を好む人は、なんとなく浄土教を、邪道に感じ否定的に見ている人がけっこう存在しているような気がします。気のせい?
    禅=自力、浄土=他力
    という紋きりの影響ではないかと思います。
    現実にはそう簡単に分けられません。
    一方で、葬式仏教とは言うものの、日本古来の信仰がベースにあると思います。
    為政者が押し付けるだけではいずれ廃れて生きますよ。

  6. 三人文殊さんへ
    >禅=自力、浄土=他力
    >という紋きりの影響ではないかと思います。
    >現実にはそう簡単に分けられません
    そうですね。同感です。
    必ずしも答えは1つでないですし、それぞれの教えの深さも実際に学んでみた人でないとわからない部分が多いと思います。
    表面上だけみて判断するのは安易ですよね。
    逆に実家なんかで、私は信仰心のない、目に見えないものを信じない、邪道なやつめ、と思われていて困ってます。
    そうじゃないのですけどね~(苦笑)。
    >一方で、葬式仏教とは言うものの、日本古来の信仰がベースにあると思います。
    >為政者が押し付けるだけではいずれ廃れて生きますよ。
    地域によって独特の儀式がありますよね(汗)。
    旦那側の葬式に参加したときは文化の違いに驚きました(汗)。
    信仰心はともかくとして、文化や心の問題として、葬式は意味のあるものだと思っています。葬式があることで気持ちに区切りをつけることができたり、心と向き合う時間がとれたり・・・
    お寺や神社が好きですし、これからもそういったことは大事に受け継がれて欲しいなぁ~と思います。
    本当は、古くから支持されてきた仏教は宗派問わず、よい教えが多いので、こういった儀式の時だけでなく普段からお世話になる宗派の教えに関心を持つ人が増えればいいのに・・・と思ったりしています。
    でも核家族の増加等、世の中の変化と共に、人の価値観も多様化し変化しているから、これからの仏教の役割や葬式がどうなっていくのか(葬儀屋が取り仕切って終わりになったり?!)、ちょっと想像つかないです・・・

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