修身

》 旧ブログ記事(2010年以前)

何冊か本を読み終わっていて、読み終わった直後は、いろいろと書きたいこととか頭の中に漂っているのですが、時間が経ってから、いざ思い出して、まとめて書こうと思うと駄目ですね。感動の新鮮さを失っている・・・
以前、安岡正篤さんの書籍を購入したことを書きました。
なるほど、確かに大物人物だけあって、得られることも多かったです。
やや「???」というところもあり、鵜呑みにすると頭に毒やぁ~というところもありましたが。いらなく殻をつくってしまうというか。
中村天風さんのほうが安心して人に薦めれますね。
安岡さんが孔子よりだとすると天風さんは老荘よりって感じがする。


安岡さんはインテリ、学者、裕福なエリートまっすぐって感じに対して、天風さんも頭よいしお金に苦労してないですが、非常に波乱に満ちた人生を経験しており、理屈じゃない深さを感じる。
・・・それぞれの著者の書籍を軽く何冊か読んだだけの、浅い個人的な感想なので、後日、別の感想になっているかもしれませんが。
安岡さんの書籍、読んで損はないです。
いや、読まないほうが損です。
人生において何が大切かがわかるように思います。
いろんな本を読んでいて、「???」と思う部分が生じることが多々あるわけですが、その「???」をもって、その書籍全体を否定するのはあまりにももったいない。
おおむね多くの書籍において、素晴らしい記述と平凡、下手したら頭の毒になりかねない内容が混在したりしているのですが、自分自身の信念や哲学が確立していないと、どうも著者の肩書きや権威の後光で鵜呑み、丸呑みにして、あの人がいったのだからと信用してしまう人がいる。自分自身の頭で考えることをしない。
よくいえば素直な人になるわけですが、毒舌でいえばめでたい人である。
めでたい人にならないようにするためにはどうしたらよいか・・・といったら、これはひとえに「見識」を深めていくしかないんじゃないかな。
清濁併せ呑む。
これは人間関係においても言えることなんですね。
どうも自分、あまり他人を嫌いになるってないんですよ。
まぁ、あーだこうだ、他人の不満や文句、たまに喋ってますがね。
感情にまかせて暴言吐くことも稀にある。
しかし喋った後に、1人になったときに、その発言を後悔して自己嫌悪していたりする。どうせ怒りや不満の感情、長続きしないのに、その発言聞いた他人が受ける印象考えると、いらない誤解されますよね。
後から自己嫌悪するにも関わらず他人のことを悪くいった日には、自分もその分、他人から悪く言われても仕方がないという覚悟で喋る。因果応報。
罪を憎んで人を憎まず・・・
なんか性格に問題ある人がいても、まずその人自身を嫌悪するよりも、その人がそのような性格になってしまった背景を想像し、まっとうな性格に修正されるような縁に恵まれなかったことを気の毒に思ってしまうんですよね。
一時期、そんな自分の性格が、誰にでもいい顔しぃの、八方美人のような感じして、うーーーっむ、、、と悩んでいた時期もありました。
我ながら、めでたい性格やなぁ・・・と(苦笑)。
しかしながら、どうもそれはそれでいいようで、かえって、人の好き嫌いが激しいほうがめでたい人物と、私が共感を覚える大人物たちは思っているようである。
最近読んでいた本に、「修身」や「修養」という言葉が多々出てきた。
知識や技術などといったものは、それはそれで大切には違いないが二義的なもの、枝葉のようなもので、人間としての本質的なもの、根本のほうがより重要。
にも関わらず、明治以降の教育において、人間教育は疎かにされ、西洋近代文明の模倣、再現に役立つ、もっぱら知識教育、技術教育に偏っていってしまったそうな。
その結果、明治時代はまだ旧幕府時代の余徳があったが、功利的、知識的な機械的人物、才人、理論家等は輩出しているものの人物的な深さのある人材が乏しくなり、弊害が・・・・・
人間ができていないと、いくら知識があっても見識はなかったりする。
興亡盛衰の通則として、世の中が非常に乱れてくると、型にはまった人間では役に立たないのだそうだ。
保守的な平凡な時代が続くと、どうしても沈滞してきて、やがて混乱の時代に。更にやがて破滅になるか、あるいはその破滅の中からまた新しい創業・建設の時代になるのであるが、興亡は民族のエネルギー、活力、これを体現する人物の有無によって決まるとのこと。
しからば、そういった新しい時代を創造するような人物はどうして生まれるかというと、これは知識や技術の学問からは生まれず、智慧や徳の学問、そういった教育の中から生まれるそうです。
幕末維新の際の英雄豪傑は、やはりあの時代の精神的、道徳的な学問、教育から生まれた。
いまの日本はどうか・・・
いまいちど、おざなりにされてきた「修身」「修養」を省みることが必要な時代になっているように感じる。
閉塞感漂う企業においても省みる必要があるんじゃないかな・・・
話がどんどん脱線していきましたが(汗)、
人間と動物の違い。
人間は身を修めることによって、感情をコントロールできる。
中村天風さん曰く、
『人間とは、正しい真理のうえから厳粛に言えば、「人間とは感情の動物」ではなく、「感情を制御できる生物なり」』
感情を制御するどころか、頻繁に感情に追い回されてないかい?・・・と、言っております。
中村天風さんの書籍の中で、私が好きな話に、「凡人・真人・至人」の話がある。
凡人は敵対し、優れし人は和合する・・・
あの人嫌い、自分に近づけないで排斥したい・・・そういうものを余計にもっているほど凡人という。
それが真の人間として生きる生き方を知って、真人になれば、たとえ自分の心に瞬間、憎らしいとか嫌だと感じるものがあっても、そういう人を退けない。進んでそういう人と和やかに親しむが、ただその人のよくない方面については与さない。それだけ清濁併せ呑んで、その人を排斥しない。
さらに至人になると、仲良くして与しないばかりか、よい影響、感化により、常にこれをよいほうへ導くことに努力する。
いちいち自分の感情に素直で、人間関係にて対立を生じさせている人を見ると、それはそれで人間くさくて個人的には好きなんですが(笑)、要領悪いというか不器用だよなぁ・・・と思って観察してしまいます。
本当に要領よい人は、柔よく剛を制す・・・表面上、おだやかに受け入れながら、円満のうちに物事を自分の思い通りのほうにもっていこうとしますよね。戦わず勝つのが上策だと孫子も言ってましたっけ?
安岡さんが書籍の中で「人と環境」について書いている。
環境が人をつくるし、人が環境をつくる。
人物が偉大であればあるほど立派な環境をつくる、環境を変化することができる。人間が出来ないというと環境に支配される。
ドラッカーも、技巧以前に、真摯さ、あるいは誠実さという人柄が重要といっている。
いくら知能指数が高くても、それらがない人に、人はついていかないと思う。
それで「見識」を深めるために、「修身」のためにどうしたらよいかというと、最近読んだ本は共通して、「良書をたくさん読め!」と言っています。
確かに、私が凄いなぁ・・・と思うような人は、多読家であることが多いですね。
更に私が大物人物と感じている人の多くが、東洋哲学を少なくても好んで読んでいるような気がする。
孔子(儒教)・老荘(道教)・禅(仏教)の3つは、基本ですね。
それぞれ単独のみの学習では、なんかバランス悪いんですよ。
いずれその中のどれかに好みが偏るかもしれないけど、3つを知ることによって、調和し、それぞれがよりわかるような気がする。
ただ、けっこうこれら、書籍を読むにあたって訳者がいまいちの人だと、ほんと読んでいて面白くない。せっかくの素晴らしいはずの内容が、がっかり・・・になっていることも。
おすすめは、入門として下記のあたりからどうでしょう?
amazonブックで古本1円からあるようですね。
・マンガ 禅の思想 (講談社プラスアルファ文庫) (文庫)
・マンガ 孔子の思想 (講談社プラスアルファ文庫) (文庫)
・マンガ老荘の思想 (講談社プラスアルファ文庫) (文庫)
いずれも2~3度は読まないと、しっくり腹に落ちません。
で、それらを読んだ後に、
中村天風さんの「ほんとうの心の力」と、安岡正篤さんの「安岡正篤一日一言」を読むというコースはいかがでしょうか。
※このところ説教くさい文章ばかり読んでいて影響されたのか、若干、説教くさい、偉そうな内容になってすみません(汗)
※ちなみに、偉そうな内容を書いていますが、私自身は修身足らず至らないところ多々ありです。あしからず。
参考文献
・ほんとうの心の力/著・中村天風
・運命を創る/著・安岡正篤
・人物を創る/著・安岡正篤
・知命と立命/著・安岡正篤

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