うだうだ

》 旧ブログ記事(2010年以前)

実るほど頭を垂れる稲穂かな・・・
いい言葉ですよね。
ふと思うことがあり、書いてみました。


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ここ最近、キリスト教系の宗教の布教の方が、頻繁に訪問してくださいます。
過去の日記にも時々話題にしているように、特定の信仰などはないものの、私自身、宗教学や哲学が好きなので、別に来るのは構いませんが、私を勧誘し入会させるのは、まず無理です(苦笑)。
いつも無駄足させて気の毒ですが、そのうち気付いて遠のくことでしょう・・・
人間の心理として、営業される、押し付けられるということに、抵抗感を持つ人は多いわけで。
しかも宗教となったら偏見を持つ人も多く、尚更、過剰に抵抗感を感じる人も多いはず。
そんな反応にもめげず、布教して歩くの、凄いですねぇ。
何が人を動かすのか・・・というのは、私が常日頃、興味を持っているテーマの1つですが、ふと何気ない、ふらっとくる訪問販売や宗教の勧誘の人の姿からも学ぶことは多いのでした。
今日は、「死んだらどうなるか気になりませんか?」等といったお話をされていきました。
なにぶん、私は西洋の宗教哲学よりも、東洋哲学好きで、東洋哲学の中に共感する部分が多い。
よって、その問いについては、キリスト教の信仰を答えとしている人とでは、いきつくところの答えが平行線になると思われる。
残念ながら西洋の宗教よりも、仏教など東洋哲学のほうが好きなんですよ・・・と話したうえ、死んだらどうなるかについての自分の回答をお伝えする。
相手からのそれに対するコメントはなかったものの、表情を見るに、やはり平行線だったようだ・・・
哲学的な話をするのは面白いですね。
私にも私なりの人生哲学があり、それを否定されるのは嫌なものです。
だから自分も相手が大事にしている価値観を否定しないようには気をつけながら、宗教とか哲学とか気軽に話せたらと思いますね。
過去日記再掲載
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【東洋哲学☆死など、わからん♪】
http://www.keiei-roumu.com/kr/cat10/612/
東洋哲学☆荘子
人間の本質は何千年も前から、意外と変わっていない。
私も自分でいろいろと悩み、たどりついた答えが、既に古典の中にあったり。
自分で悟ったと思っていた答え、既にでてるのね・・・。
温故知新・・・。
しみじみと 昔から人間、同じようなことを考えてるのね・・・と、感じること多し。
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夢の中で歓楽をつくした者が、一夜明けると辛い現実に声をあげて泣き、夢の中で泣き悲しんだ者が、一夜明けるとけろりとして猟を楽しむ。夢を見ているときは、それが夢だとは気付かない。夢の中で夢占いをすることさえあるが、目覚めてはじめて夢だったと気付く。人生にしても長い夢のようなもの、悟った者だけがその夢であることに気付く・・・。
                (荘子:長梧子の夢 より)
荘子【紀元前369~286?】
「史記」によれば、宋の国生まれ。(現在の中国河南省)
老子に次ぐ道教の始教といわれている。
<吾が生やはて有りて、知やはて無し>
人の一生には限りがあるけど、知には限りがない。
限りのあるもので限りのないものを追いかけても疲れるだけじゃん。
考えても仕方がない。
<大知は閑閑たり、小知は間間たり>
りっぱな知恵は悠々としてるけど、つまらない知恵に惑わされる人はせこせこしている。そのような人はいずれ、老醜をさらすだろう。
夢が現実なのか、現実が夢なのか。
荘子は「どちらでもかまわない」という。
「知」にはなんら確かな判断はないのだから、考えてもしかたのないこと・・・。
「知」に確かな判断はない。「知」から離れたところに自由な世界が。
大小、是非、美醜、善悪、生死・・・など、現実に相対しているように見えるは、人間の「知」が生み出した結果。
「相対」は人間の知恵がつくりだした見せかけにすぎない。
「相対」の概念(知)をとり払えば万物はひとつであることがわかる。
———–
余談
「死」をどう考えるか?
孔子曰く、
<いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん>
生のこともわからないのに、どうして死のことなどわかるはずがあろうか?
死などわからん♪
東洋哲学は「実践」に重きがおかれているらしいです。
禅も「日常性が大事」と、確か していたような・・・。
老子や荘子の思想、共感するところが多く、好きなのですが、油断すると とても枯れた気分になります。(私だけか?(笑))
東洋哲学とはいっても、いろんな考えの方がいます。
代表的な人たちの間でも、共通するところもあれば、反するところもある。
おもろいですよ。
【宗教学】
http://www.keiei-roumu.com/kr/cat10/608/
まず、世界には大きく分類して「一神教」の宗教と「多神教」の宗教があるんですよ。
一神教・・・ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など。
多神教・・・仏教、道教、神道、ヒンドゥー教など。
世界の宗教の人口比率で一番多いのはキリスト教、次はイスラム教。
仏教・・・意外と低い。手持ちの本には6%とある。
軽くでよいので、世界のメインの宗教について知っておくのは、世界を知るためにも重要だと思います。
それぞれの国の国民性・・・かなり宗教に影響されてますから。
もちろん日本人も、けっこう無意識ながらも影響受けていると思われますねん。
例えばですね、一般論ですがね、、
一神教は「唯一の神のみが正しい」→正しいものは1つである。
自分の信仰や信念を相手にわからせ、相手に納得させるのも思いやりの心のうち。(日本人にしてみれば、押し付けに映る?)
多神教は「神や仏は唯一の存在ではない」→正しいものは1つであるとは限らない。(中道的発想)
という、発想になりやすいみたいです。
なるほど、なんとなく納得では?
キリスト教が主流の欧米の感覚と、日本人との感覚にズレが発生することが多々あるのは、宗教などの文化の違いに起因していたりするのですよね。
白黒はっきり!・・・っていうよりは、YES 、NOがあいまい。
正しいのは自分だけでない、と考え、相手の立場にも立とうとする。
だから即答ができない、というより相手に心を配る・・・。
(んー・・・、でも相手の立場に立とうとして考え、心を配るということをしない日本人も多いね。ま、一般論として)
ついでに書くと、
仏教にもいろいろ宗派がありますが、私は禅の思想が好きです。
お釈迦様が原点でも、その後のお弟子さんの思想や文化により 様々な宗派が発生した歴史を考えると面白いですよね。
仏教の思想好きだけど、神様などに対します信仰心はないです(汗)
宗教組織の存在意義にも、否定はしないのですが、疑問というか、自分なりの必要性の答えが出ておらず、なんのために必要かしらと時々、ぼーっと考えています。確かに、文化を守るためには必要ですよ。でも そのためだけに存在というのは本来の役割とは違いますよね・・・。そのうち答えが出るかしら。
昔は もっと日本人も信仰心があつく、心のよりどころとして宗教の存在意義があり、そして宗教組織にも意味があったと思うのですよね。
いまは・・・。
時代が変わったのだから、古くからの宗教も、少しづつ意識を変える必要があるのではないかしらねぇ。
宗教に偏見をもつ日本人が増加する中、
古くからある仏教や神道なんかは、宗教という枠を超えて、日本人の文化として存在を別格として万人に受け入れられているように思う。
観光でお寺に行ったり、自分自身の信仰心とは関係なく先祖伝来の宗派に抵抗感なく葬祭をしてもらう。
禅の思想はですね、
不立文字
教外別伝
直指人心
見性成仏  (達磨大師)
~悟りの道は文字や言葉では伝えられず
文字に書かれていないものを特別に伝授するのが禅
坐禅によって自分の本性が万物の心理と一体であることを見抜けば
それが仏の悟りに他ならない~
言葉などに頼らず、自分で悟れってことですね。
そもそも悟りの境地などは言葉や文字で表せるものではない。
言葉や文字は、真理を表すための仮のもの、
悟りの境地に導く手段にすぎず。
仏像や経典なども絶対視しない。
禅の思想からしてみたら、仏像だって 別にありがたいものではない。
大事なものはなにか?
難しく形式にこだわるほど、道(真理)から遠ざかるんじゃないかしら。
宗教というより、哲学に近いのですよね。
「無」と「空」の境地。
一は一切であり、一切は一。
ふっふっふ。けっこう禅の思想に浸るの好きですねん。
おもろいです。
       (2005年10月19日~20日に書いたのを編集)
【思考の旅へトリップ】
http://www.keiei-roumu.com/kr/cat10/606/
老子の哲学(講談社+α文庫 老荘の思想 より引用)
—-
万物の根元、つまり宇宙の実体を構成し、それを動かすもの、この本体を、老子は「道」と名づけた。
万物は流転する。それが宇宙の運動法則であり、「道」の運動形式。
「道」は一定不変のものとしてはとらえられない。本来、無限定なものであるから「無」としかいえないが、時間と空間に制約された現象として万物があるから「有」と見ることもできる。両者はじつは同じ本体から出ているのだ。「無」とはつねにものを生み出そうとするもの、「有」とはつねにものを滅亡へ向かわせようとするもの。
「無」と「有」、この両者の対立と転化を含んで、止むことなく運行する根元の作用、それは奥深くてはかり知れないから「玄」としか形容することができない。
「天は玄にして地は黄なり」
その根源的な玄なるものから、あらゆる変化、森羅万象が現れる。
「道の道とすべきは、常の道にあらず」
これこそ真の道だといえる道は、絶対不変の固定した道ではない。万物は瞬時にも止まることなく変化しつづける。「変化」こそ宇宙の本質であるから、真の認識は、事物をつねに変化においてとらえなければならない。
*****
言語では道理のすべてを表現することができない。
「道」を体得している人も、それを説明しようとすると、うまく言えない。目の見える人が見えない人に太陽を説明できないのと同じである。(ソウトバ語る)
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文字は指にたとえられる。指は真理を指すが、たいてい、人は指の先しか見ず、その指し示す彼方の真理を見ようとしない。(禅宗 六祖壇教より)
——
物事、森を見て木を見る・・・みたいな発想が大事だと思うのですよね。
森を見るにはどうしたら・・・
「古典を学べ」が、1つの方法じゃないかしら。
源流、源流まで遡り、歴史を学ぶ。
「木」しか見えていなかったものが、体系的に「森」まで見えてくる。
成功哲学にしても宗教学にしても、いまとなっては、いろいろな解釈や解説が入り込み、多数の宗派や 書店には本が無数に並んでおりますが、源流まで遡ってみると、けっこう本質的なことは古典から変わらずにいることに気付く。
紀元前の話・・・約3000年前の時代にまで思考を遡らせる。
そこには いくつかの文明国家が既に地球上に。
そして、いく人もの すぐれた学者、思想家が・・・。
東洋においては、インドにて釈迦牟尼。
中国では、老子・・・・など。
先代に生まれた思想家は、後世の思想家にも影響を与え続けている。
禅にしろ、その他の仏教にしろ、東洋的思想に、表現こそ違うけれど、けっこう似たような共通の思考が見られるように思います。
影響を受け継いでいるので当然といえば当然でしょうが。
例えば後世の思想家、「道元」さん。(1200~1253)
道元は13歳で比叡山にのぼり修行の日々を送っていたが、権力者と結び利欲に走る当時の比叡山には失望の思いを抱いていた。又、仏教の根本にかかわる疑問も湧いてきた。
あらゆるものには ことごとく仏性が備わっているという。ならば、なぜわざわざ修行する必要があるのか?
比叡山では答えが得られず、山を下り禅を学ぶ。
その後、中国に渡り修行をし、疑問に答えを見つけて帰国。曹洞宗を布教。
(参考文献:「東洋哲学」は図で考えると もっと面白い)
後世の人により、他の思想を取り入れたり、改良、修正されながら、どんどん体系が枝分かれしていく。
答えは1つとは限らない。
変化し、様々と発生していくのも、自然かもしれません。
歴史や人間を考え始めると、面白いですねぇ。
歴史好きな人に、けっこう共感します(笑)
3000年前より昔に遡って 人間の思想のルーツをたどってみるのも
面白そうだなぁ・・・・。
(変わり者ですみません(汗))
3000年という時間だって、宇宙レベルの大きな 漂う流れからしてみたら、ほんの一瞬。
うたかたの幻のような中で、権力を誇示したり争ったり。
アホくさ~。
地位や名誉、なんの価値があろうことか。
・・・って、たまに老子・荘子の思想の中に漂ってみる。
うん・・・けっこう自分、空想壁あり?(笑)
思考の旅へトリップしてしまうのは楽しいのですが、
これでお金は稼げませんからね。
地に足をつけて、現実を見ないと(笑)
長くなってきたので、このへんで。
               記・2005.11.6 より

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